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TOP > 静フィルの歩み 創成期 1977-1979

静フィルの歩み

創成期

1977年 (昭和52年) 9月、 静岡県中部地区のアマチュア音楽家23名により 「静岡フィルハーモニー管弦楽団」 が結成され活動を開始した。 もっとも、これより6年程前から静岡では「静岡県交響楽団」というアマチュアオーケストラが活動を行っていたし (52年3月解散)、 さらにその10 年程前まで 「静岡交響楽団」 というアマチュアオーケストラが活動していたということから、 静岡では昭和30年代からオーケストラが存在し、演奏活動が行われていたことになる。

そもそも静岡市には、 終戦直後の昭和20年代から 「静岡楽友会」 という組織が、 内外の著名な音楽家を招いて定期的にコンサートを開催してきた実績があり、音楽文化面、 ことにクラシック音楽分野においては、比較的先進的な士地柄であったということがうかがえる。 しかし全国的に見ると昭和26年に結成した市川交響楽団、 さらには大正末期に活動を開始している諏訪交響楽団など、 驚くべき歴史を重ねている団体が多数あることから、 上には上があるのも確かである。

前述の静岡県交響楽団(県響)が昭和52年3月に解散した後、有志が集い、静岡のオーケストラの再建に立ち上がった。 地方においてアマチュアオーケストラ活動を永続していく為には何が必要か、 幾日も討論し合ったのである。 その間、 後に顧問となって頂く内田俊先生や、 宗知信先生をお伺いしてご意見を頂いた。
当時、 静岡の音楽界の重鎮であった内田先生と、 県教育長を退き県立図書館の館長であった宗先生のお二人は、 静岡の音楽文化について、 またオーケストラの育成について、 並々ならぬ熱意と豊富な知識をもって相談に乗って下さった。こうしたお陰もあり、ようやく自分達なりの地方におけるアマチュアオーケストラの運営と方向性が掴めたところで、昭和52年9月、 活動開始となったのである。
オーケストラ活動の要素となるのは、メンバー(楽団員)、指導者、練習場、 運営資金その他色々あるが、 先ずメンバーが揃わなくては始まらない。仮に交響曲を演奏する場合、弦楽器、管楽器、打楽器と10数種類の楽器の奏者が、 最低でも50~60人程度必要である。 次に指揮者で、毎回の練習にオーケストラを指導できる専門家においで頂かなくてはならない。また編成が大きく、時には大音響が発せられる為、広くて近隣に迷惑をかけない練習場が必要となる。 そして、 これに掛かる経費を賄う資金、 これらが当面の運営に欠かせない要素といえる。

またアマチュアオーケストラの宿命は、 運営の全てを自ら行うことが前提となっていることである。

練習日と演奏曲を決め、 練習会場を確保し指揮者の手配をしたら、 団員にこれを周知する。 次に譜面の入手と団員への配付。 練習に際しては、会場と事前打ち合わせ、 指揮者の送迎と練習の打ち合わせ、 謝礼の支払い、楽器の運搬、会場の設営と片付け、会場費の支払い等々、細かく挙げたらキリがないが、 毎週これらを繰り返していかなくてはならない。 この他にお金の管理や譜面の整理、 外部との折衝等、 日常の練習活動を支える上で、 目に見えない仕事が余りにも多い。 これらを怠りなく処理していく組織力が、 アマチュアオーケストラ運営の最大のポイントといえよう。

団員はその殆どが仕事を持ち、 家庭を持ちながらオーケストラ活動に練習に参加している訳で、 仕事を終え1時間以上車を飛ばして来る者、残業が多く毎週の練習に参加するだけで精一杯という人がほとんどで、こうした運営の仕事まで担当できるメンバーは少ない。 いきおい少数の運営を担当する役員は、 自分の練習をする間もなぃくらぃ仕事に追われることが多々ある。 だが目に見えにくいこうした働きが、 アマチュアオケの活動を支える大事な要素となる。 しかしいずれの団員も皆音楽が好きで、 オーケストラが好きで、 自らが創出する音楽の素晴らしさを味わうことで、そうした苦労は霧散してしまうのである。そして、演奏会にお出で頂いた多くの人の、 「素晴らしかった感動したよ。」 の言葉が励みとなり明日へのエネルギーの源となる。

さて、 活動の拠点となる練習会場については、 当初、 市内のある公民館のホールを使用していたが、 近隣の住民から苦情が寄せられるようになり、 使用できなくなってしまった。

このような状況を見かねた地元のテレビ局 (テレビ静岡) が、夜間なら空いているスタジオを使用しても良いと、 手を差し伸べてくれた。 しかも、 ティンパニーなど大型楽器を格納する倉庫まで提供して下さったのであった。
テレビスタジオは広さも十分で、 安心して音を出すことが出来、 団員にとってさらに有難かったのは駐車場も使用できた点である。

こうして活動拠点を得た静フィルは、水を得た魚のごとく練習に精を出すことができた。 メンバーも徐々に増え、その年の12月には、テレビ静岡主催によるクリスマスコンサートを駿府会館大ホールで開催することができるまでになった。

記念すべき第1回の定期演奏会は、翌52年(1978) 5月11日、当時静岡における文化の拠点となっていた静岡市公会堂にて開催することとなった。 指揮者には、 団員でヴィオラの菅ヶ谷さんの推薦で、 学生時代に指導頂いたという早川正昭先生を招いた。 当時、 東京ビバルディ合奏団の指揮をしていた早川正昭氏による最初の練習は、 衝撃的というか実に印象深いものであった。 ドヴォルザークの交響曲第8番の冒頭の数小節に30分以上かけたのである。 それは、 音程に対して、 今までの我々が如何に甘かったか、 と同時に、 本物の音楽はこういうものだと思い知らされた瞬間であった。

約5ヶ月間の練習の成果は立派にあらわれ、 第1回定期演奏会は成功し、 静フィルは幸先良いスタートをきることができた。 演奏会打ち上げの席で、 早川先生が 「今日、 静フィルのロケット発射は成功したが、 軌道に載せる為には、 2段目、 3段目のロケットが成功することが必要です。」 と仰られたことも印象的であった。

翌1979年6月9日の第2回定期演奏会は、 顧問の内田俊先生の推薦で、 指揮者には守谷弘氏、 客演ピアニストに真田光子さんをお招きし、ショパンのピアノ協奏曲第1番と、 ベートーヴェンの交響曲第3番 「英雄」 に挑戦、 共に大好評を得て成功を収めることができた。 これで2段目のロケットも成功したのである。